日本共産党新座市議会議員団
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にいざ民報

2004.7.25  No.1074
日本共産党新座市委員会
悪政に正面から立ち向かいます
大門みきし参議院議員決意表明
塩川鉄也参議院議員と決意表明する大門みきし参議院議員
 参議院選挙を終え、大門みきし選挙対策センター事務所が次の見解を発表しましたのでご紹介します。
日本共産党参議院議員 大門みきし

 みなさんのご奮闘に感謝を申し上げます。

 全体が厳しいなかでしたが、なんとか比例の四議席を確保、私も再選をはたすことができました。お力添え、本当にありがとうございました。

 北関東から東北・北海道まで広大な地域でしたが、どこへいっても温かくむかえていただきました。また、直接、うかがえなかった地域でも、日本共産党の勝利と大門再選のために、大変なご尽力をいただいたと聞いています。

 私のバッジは、たくさんの党員、後援会員、支持者の方々に付けさせていただいたバッジです。これからの六年間、このことを忘れず、議員活動と日本共産党の前進のために全力をつくします。

 今回の参院選挙の結果で、憲法改悪・消費税増税・『構造改革』推進などの悪政が、二大政党の競い合いによって、一気にすすむ危険性があります。この二大政党の悪政競争にはっきりとした対決軸をしめし、本物の改革の道をしめしているのは日本共産党しかありません。

 日本共産党と草の根の力を大きくして、悪政に正面から立ち向かっていきましょう。私も皆さんと共にたたかう決意を申し上げて、挨拶とさせていただきます。

2004年7月12日
不況に打ち勝つ仲間をつくろう
民商が第33回総会
 7月18日、第33回新座民主商工会の定期総会が約50名の会員の参加で行われました。海老沢会長の挨拶の後、高橋事務局長から議案の提案が行われました。

 「小泉構造改革の消費税の免税点引き下げや、銀行の貸渋り、貸剥がしなどで中小商工業者は転・廃業に追い込まれている。こうした厳しい情勢に見合った攻めの運動に切り替え、誰もが『魅力ある民商』と胸張って言える民商を全会員参加で作り上げよう」との方針案と新役員の提案を全員一致で可決しました。

 参加して、1年間に市の制度融資では37件相談し35件実行、1億1250円の実績。サラ金・ヤミ金の相談も70件余り寄せられ、『特定調停』などの解決レベルも上がり、難しい問題も次々解決し、新しい相談役や民商役員も生れ、生き生き活動している様子が良くわかりました。

(小鹿市議)
乳幼児医療窓口無料化早く実現を
 乳幼児医療費の窓口無料化は、47都道府県のうち、31都府県が実施をしており、埼玉県内でも22市町村が実施しています。(下表参照)

 そこで朝霞四市の共産党議員団は6月2日、四市医師会にも無料化にむけての御協力を申入れました。

 先日、橋本朝霞地区医師会会長から「窓口無料化は医師会としても望ましいことと思っており、直近に申入れをおこなう。須田市長は四市の足並が揃わなくても実施していく考えもあるようだ」という旨のご返答がありました。


乳幼児医療窓口払いなし
県内22市町村が実施・04.4.1現在)

さいたま市 川越市 熊谷市 行田市 加須市 鴻巣市 上尾市 草加市
越谷市 八潮市 富士見市 上福岡市 吹上町 大井町 三芳町 都幾川村
玉川村 江南町 妻沼町 騎西町 南河原村 松伏町
13歳で見た忘れられぬ光景
・・・私の被爆体験
 私が長崎の原爆に被爆したのは中学1年生で13歳になったぱかりの8月9日、11時を一寸過ぎたときです。自宅の2階で本を読んでいると突然B29の爆音が聞こえ、目も眩む閃光に驚き1階に駆け下り目と耳を手で押さえて伏せた直後、衝撃波が押し寄せ、格子戸とガラス戸の下敷きになって気を失っていました。

 自宅は爆心地から3・2キロ余り離れた山の陰で命拾いをしました。しかし、爆心地近くに住んでいた2世帯の伯母の家族5人の命は一挙に奪われました。3日後の爆心地近くで、大やけどで瀕死の祖父のそぱで、伯母の遺体を焼きました。周りは見渡す限りの焼け野原です。黒焦げの遺体が散乱し、川には裸の膨れあがった何十という遺体が浮かんでいました。決して忘れることのできない光景です。

 長崎で殺された市民の数は7万人を越えています。広島では14万人といわれています。

 原子爆弾は無差別に大量に人々を殺傷する狂気の兵器としか言いようがありません。

 原子爆弾(核兵器)の残虐性はそれだけにとどまりません。目に見えない放射線はかろうじて生き延びた人々の体を蝕みつづけ死ぬまで苦しめます。

 まだ数万発の核兵器が、すぐ発射できる態勢にあります。私たちは薄氷の上で喜怒哀楽の日々を送っているといっても過言ではありません。どうやったら核兵器を廃絶できるのか、被爆者のことばに耳を傾け、知恵を出し合って行動しましょう。

(田中煕巳・野火止五丁目)
栄養失調で2歳の弟は
・・・私の戦争体験
 1945年8月2日未明の空襲は水戸市街を8割近く焼き尽くしました。

 私たち家族は、歩けない祖母を母が、私は弟を背負い、妹の手をひいて火の中を逃げ迷い、林の中へ大勢の人々がいました。そこにも容赦なくB29の編隊が焼夷弾を投下、子どもの私でも「これで死ぬのかな」と思いました。

 母は、自分たちの周りの火を風呂散包みで叩いて消していたのを思い出します。その母が、数日前に防空壕掘りの動員があったこと、祖母を背負って逃げ歩いたのが原因かは解りませんが、まもなく流産し入院してしまいました。終戦時で食料がなく、病院でも食事が出ませんでしたので、家族が毎時持っていくようになっていました。でも家にだっで食べ物はありませんから何を持たされたのか、ふかし芋が良いほうだったのではと思います。それを持っていくのが10歳の私の仕事でした。

 病院には毎日のように担架で運ぱれてくる子ども達がいました。血だらけで泣き叫んでいる光景は今も頭にはっきりと残っています。

 これは焼け跡にB29から落とされた焼夷弾が不発であったものをちょっと触って爆発してそこにいた人達が怪我をしたのです。これで亡くなった人も大勢いるのでは?今、イラクでの様子が報道され「何人死んだ、怪我をした」は、59年前の夏を思い出します。

 この年、母は33歳で8月30日に流産がもとで、弟(2歳)は栄養失調で12月29日に亡くなりました。弟は私の背中でよく泣いていました。今思うとお腹が空いて泣いていたのではと思います。

 今私たちはあふれる食料の中にいます。食べ物がないなんて考えられません。「2度と戦争はいやだ、日本がよその国の戦争に荷担することにも反対したい。」この思いから憲法九条が生まれました。九条を死守する私の思いを大勢の方に伝えていきたいです。
 
 (渡辺民世・野寺)
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