日本共産党新座市議会議員団
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にいざ民報

2016.8.21  No.1679
日本共産党新座市委員会
「命かがやく青い地球を未来に」
ヒバクシャ国際署名に大きな反響 8・9ひばりヶ丘駅
「頑張ってください」「オバマさんも広島に来ましたね」若い人が次つぎと署名=8.9 ひばりヶ丘駅。新座市原水協
「頑張ってください」「オバマさんも広島に来ましたね」若い人が次つぎと署名=8.9 ひばりヶ丘駅。新座市原水協
 長崎が、被爆71年目の原爆の日を迎えた8月9日、新座市原水爆禁止協議会は、ひばりが丘駅前で、「ヒバクシャ国際署名」に取り組みました。
 新座原水協は、毎月6日か9日にひばりが丘駅、新座駅、志木駅を回って核兵器廃絶署名行動。現在は、新たに始まった「被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」に取り組んでいます。

 「ヒバクシャ国際署名」は、次のように訴えています。
 「年齢80歳を超えた被爆者は、後世の人びとが生き地獄を体験しないように、生きている間に何としても核兵器のない世界を実現したいと切望しています。あなたとあなたの家族、すべての人びとを絶対に被爆者にしてはなりません。あなたの署名が、核兵器廃絶を求める何億という世界の世論となって、国際政治を動かし、命輝く青い地球を未来に残すと確信します。あなたの署名を心から訴えます。」(抜粋)

 呼びかけ人は、5月のオバマ大統領が広島に訪問した際、オバマ大統領に直接語りかけた被爆者の坪井直さんをはじめ、谷口稜曄さん、岩佐幹三さん、田中熙巳さんの日本被団協の方々、韓国原爆被害者協会・名誉会長、北米原爆被害者の会・会長、ブラジル被爆者平和協会・会長、カナダ在住、メキシコ在住の個人の方々です。

 今世界では、国連核軍縮作業部会に参加する国の過半数が核兵器禁止条約の早期交渉開始を支持しています。一方、被爆国でありながら「核の傘」に依存する日本は「時期尚早」という立場です。
 圧倒的な署名は日本政府への圧力になります。ぜひ、みなさんも署名にご協力下さい。ネット上の署名で集めることもできます。

 この日は、新座原水協に加盟する6団体から9名が参加し、署名58筆、募金千五百円が寄せられました。「頑張ってください」「オバマさんも広島に来ましたよね」など若い方が何人も署名してくれました。共産党から石島よう子市議、辻みき市議も参加しました。
民主主義は止まらない
SEALDsへ 「学者の会」が声明
市民連合の大街宣。シールズと野党党首=6.19都内
市民連合の大街宣。シールズと野党党首=6.19都内

「安保関連法に反対する学者の会」はSEALDs解散にあたって次の7つの成果を発表し、ありがとう、又会う日までと声明を発表した。
 1「言うことを聞かせる番だ、俺たちが」「選挙に行こうよ」など主権者意識に根ざしたコールは民主主義を刷新した。2相互にリスペクトしあう個人が立憲主義そのものを体現した。3先人から受け継いだ平和への思いを自らの言葉で紡ぎ未来への希望を取り戻した。4野党共闘を実現し参院選挙一人区すべてで候補者を一本化できた。5東京だけでなく全国各地で学者、ママの会、弁護士らの協同を整えた。6政治を変える発信の重要性を教えてくれた。

(8/17赤旗より)

「憲法9条をまもり、次世代に」
終戦記念日に共産党が宣伝
終戦記念日に共産党が宣伝 1

 71年目の終戦記念日。日本共産党は侵略戦争の深い反省からうまれ戦争放棄を掲げた憲法9条を守ろうと市内各所で宣伝しました。志木駅では出かける青年が何度も手を振り、東武バスの運転手さんがニコニコと会釈。年配の婦人が「暑いのにご苦労様」と労いの言葉もかけて頂きました。
 自衛隊の武力行使の危険が迫るなか、市民との共同の戦いをさらに強める決意です。
終戦記念日に共産党が宣伝 2

8割が「餓死」と「マラリア」フィリピン戦線を生き延びて
「動くものは何でも食べた」斉藤喜作 92歳 東在住
斉藤さんから戦争体験を聞く辻実樹議員
斉藤さんから戦争体験を聞く辻実樹議員
 現在92歳の斉藤さんは福島で生まれ育ち、21歳の時に徴兵制で当時の関東軍に入隊しました。19年4月にチチハルの航空通信に少年兵として入り、6か月間の教育後、11月にルソン島マニラ転属の命令。マニラ上陸と同時にグラマン襲撃があり、間一髪で免れました。

 フィリピン戦線では50万人以上が戦死、餓死しました。兵隊は次々と上陸するのに食料を乗せた輸送船が爆撃され食料が全然とどかないという状況でした。
「食料は現地で調達せよ」と命令が出され、斉藤さんは生き延びるため、雑草やまだ青くて渋いバナナ、生き物は動くものは何でも食べました。ネズミは美味しく皮をはぎ、焼いて食べたそうです。『トカゲも美味しかった。水がなくて、自分のおしっこを飲んだが渋くてたまらなかった。山の中腹で倒れた兵隊の目がぱっちり白くなっているが、よく見るとウジ虫が目、口、鼻に湧いてひどいものだった。フィリピン兵のみならず日本兵が日本兵を撃ち殺し、その肉を食べるということが現実に起きていた。

 アメリカ軍が上空から告知する『対地放送』で敗戦を知らされ、茫然自失だったが「やっと終わった」とも思った。ある古兵は降伏前々日「自分はアメリカの捕虜になって勉強して、役に立つ仕事がしたい」と言っていましたが、上官に軍事裁判にかけるか、自決するかの選択を迫られ、彼は自決を選びました。深い穴を掘り一発だけ入っている拳銃を自分で後ろから打ち抜き、亡くなった。死んだことを確認するまで見守ったが、本当に可哀想でした。生きていたら彼はどんな仕事についていただろうと斉藤さん。

 今回お聞きした話は衝撃的でした。普通に家族と暮らしていたのであろう若い人たちが、どういう思いで命を落とし、仲間が死んでいくのを見ていたのか、どんなに無念だったか思うと言葉もありません。斉藤さんは「二度と、絶対に二度と戦争はしてはいけない」と話していました。

 私の祖父はニューギニアで衛生兵として出兵していました。1度だけ私に体験を話してくれましたが途中でやめてしまいました。戦争は人が人じゃなくなる、地獄だと言っていました。斉藤さんが『今も江戸前寿司を食べるとき、美味しいものを食べるときには、いつも戦友を思い出し、一口だけでも食べさせてあげたかった』と話す姿に涙がでました。こんなにひどいことが起きていた、その現実を受け止めて、戦争を知る人の思いを伝えていかなくてはいけないと思いました。そのために斉藤さんは私に話してくれたのだろうと思いました。

(記・辻実樹市議)
市民の投稿 その2
模範的な軍国少年だった私
戦前の逆戻り 絶対させない
 私は小学校を卒業した13歳の春にパイロットを養成する国の学校に進みました。5年間、国費で全寮制の教育をして将来はパイロットとして軍事に備えるという目的の学校でした。

 朝夕、軍人勅諭の一節、一つ軍人は忠節を尽すことを本分とすべし、一つ軍人は武勇を尊ぶべし・と斉唱させられた日々でした。
 校長は陸軍大佐、生活指導の教官はすべて予備役の陸軍の下士官でした。
 こうした環境の中で、模範的な軍国少年に育て上げられました。自身もそういう確信を持つ人間になっておりました。
 然し、昭和20年になると戦局が悪化し、B-29による都市の無差別爆撃が始まり、艦載機による波状攻撃、硫黄島が米軍に占領されてからは、更にはげしい攻撃を受けるようになりました。

 私は当時、千葉県の松戸飛行場にある学校に居りましたが、P-51という戦闘機の攻撃を受け、空襲のたびに蛸壺式の防空壕に飛び込みました。
 忘れられないのは7月の暑い日、5機編隊のP-51におそわれ、蛸壺の中で今にも自分の所に銃弾が当たるのではないかと恐怖におそわれ、その時は軍国少年もあれほど教育された「国のため、天皇のため命を惜しまない」ということも何処へやら。ただ死にたくないと恐怖の中で思ったことでした。

 その時、10mほど離れた蛸壺で級友一人が腹部に銃弾があたり、死亡しました。そののち一カ月ほどで敗戦となりました。

 今、平和な日々を送っていますが、自衛隊の海外戦争への参加や、高校生の体験入学などを思うと、また、自分の過ごしてきた過去のようなところに逆戻りさせてはならないと強く思う昨今です。

投稿・大竹力(88歳)畑中在住
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